【AICE連載セミナー】エネルギーと経済―技術者は社会の問題を切り離せるか(1/2ページ目)
- コラム

2024.11.26

【AICE連載セミナー】エネルギーと経済―技術者は社会の問題を切り離せるか(1/2ページ目)

【AICE連載セミナー】エネルギーと経済―技術者は社会の問題を切り離せるか(1/2ページ目)

慶應義塾大学産業研究所 所長・教授

野村浩二

2024117

 

20194月、山手線の「最後の新駅」とも称される高輪ゲートウェイ駅の周辺開発工事で、1872年に日本で初めて開業した鉄道の線路跡である高輪築堤(たかなわちくてい)の遺構が発見された。現在の田町品川間にある国道15号沿いには、かつて兵部省(のちの陸軍省・海軍省)の軍用地があったため、高輪築堤は当時の海岸線に沿って約2. 7キロにわたり海上に敷設された。高輪や三田の丘から見る海上鉄道は、日本の未来を力強く切り拓く象徴として映ったことだろう。

 

技術者が備えるべき「豊かな見識」

高輪築堤は1910年代から段階的に埋め立てられ、その存在も忘れ去られていた。その頃、築堤の北東に位置する芝浦で有元史郎氏は東京高等工商学校(現・芝浦工業大学)を開校している。モダンな佇まいの芝浦校舎は「白亜の殿堂」と称され、校舎の上階からは東京湾を行き交う船が見渡せたという。現在、芝浦の地に立つ碑には「学生たちが景色を眺めながら、未来の夢を語り合った」と刻まれている。

有元氏は広範な学識を持つ人物であった。東京帝国大学工学部機械工学科を卒業後、同大学経済学部に学士入学し経済学を学び、さらに法学、文学、商学も修め、5つの学士号を取得している。技術者としての基盤を持ちながらも、総合的な視点の重要性を見抜く慧眼は、「高い倫理観と豊かな見識を備えた優れた技術者の育成」という芝浦工業大学の建学の理念に反映されている。

100年後の現在、技術者が備えるべき「豊かな見識」とは何か、どのように捉えるべきだろうか。日本社会が豊かさを増すにつれ、国民の関心は個人の生活基盤から自然環境や社会との関わりへと移りつつある。こうした課題の重要性が増す中で、技術的なイノベーションによる解決を求める声も高まっている。エネルギー環境問題は1990年代初頭から注目され始め、2010年代半ばからは世界的な取り組みが加速し、その目標は脱炭素(カーボンニュートラル)へと先鋭化している。

本稿の主題は、脱炭素における経済的な行き詰まりから生まれるイノベーション待望論でも、若き技術者への応援歌でもない。現在の技術者に求められる「豊かな見識」とは、「社会の要請」を鵜呑みにするのではなく、それを正しく疑う姿勢にほかならないと論じたい。

 

高度化する問題と分業化される思考

豊かさの実現とは、社会的な課題を解決してきた歴史の積み重ねである。解決されやすい課題から順に取り組まれることで、残された問題は必然的に高度化・複雑化していく。さらに、現代では問題の発見と啓蒙が一部の活動家にとっての「仕事」となり、それは自己目的化し必ずしも生産的ではないかもしれない。政府や非営利部門がこれを後押しし、それを基盤としたコンサルやシンクタンクといった民間ビジネスも巻き込まれている。こうしたシステムの中で、新たな社会的問題が「発明」され続けている。「社会の要請」には、どこか怪しげなものが含まれているかもしれない。

技術者や研究者は、日々それぞれの専門分野における探求に専念していることだろう。著者は1990年代初めからエネルギーと経済の現象を分析してきたが、理工系の学者や研究者と議論を交わす多くの機会に恵まれてきた。その中でよく耳にしたのは、『社会の課題が与えられたならば、技術者はその解決に全力で取り組むのみだ』という言葉である。それは研究者として尊敬すべき姿勢であるが、高度化・複雑化した問題を分割し、それぞれの専門家が限定的な課題の解決にあたることを前提としている。いわば、思考の分業と言えるかもしれない。

思考の分業を行うつもりでいても、懸念は尽きない。専門家であるはずの経済学者や官僚などが、現行の産業技術(たとえば石炭を利用する高炉法)がいまなお利用されている理由や、その技術的な合理性を十分に理解していない可能性がある。また、未来に求められる技術(たとえば水素社会)についても、研究開発が進みながらも普及に至らない現状を、その技術的な課題とともに理解していないかもしれない。さらに、「社会の要請」を声高に主張する者が、測定や検証の経験を持たず、現象の不安定さや多義的な解釈の余地を考慮せずに、自然科学も社会科学の知見も持たないまま国境を越えて伝言ゲームを続けている場合もあるだろう。著者の経験に照らすと、これらはもはや懸念ではなく、実態である。

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高度化・複雑化した問題に対しては、もはや思考の分業は成り立たない。それは解答を得ることがきわめて困難な、問題としての厄介な特性を持っており、「邪悪な問題(wicked problem)」と呼ばれる。半世紀前に論じられているRittel-Webber (1973)による「邪悪な問題」の持つ代表的な特性をまとめたものが1である。原子力利用、再エネ推進、脱炭素政策、気候正義など、エネルギー環境問題はまさにこうした特性を持っている。

技術者が正しく疑う見識を持たずに、他者への信頼に依存することで思考停止や集団浅慮に陥るならば、「社会の要請」に応えようとするその志とは裏腹に、社会の豊かさの基盤、とくに現在の産業基盤を破壊してしまいかねない。高度化・複雑化した問題においては、意志や目的と正反対の結果が導かれることが例外ではなく、むしろ必然に近いのである。

 

問われるべき需要の源泉

今夏、著者の指導教授のゼミOB/OG会で、鉄鋼会社の営業として活躍する後輩と話す機会があった。彼はグリーンスチールを将来の商機と捉えているようだった。気になったのでそのリスクについて矢継ぎ早に尋ねると、周囲の後輩たちは「そうだよな」と納得している様子だった。彼も最初はニコニコと同調していたが、最後には小さく「グリーンスチールの需要はあります」と自らに言い聞かせるようにぽつりとつぶやいた。

真に問われるべきは、企業が目にする直接的な需要ではなく、その背後にある源泉である。需要の糸を辿っていくと、その源には政府による補助金や規制、強制的な調達が潜んでいるかもしれない。こうした需要は政策によって創り出され、目にするものは大きく膨らみ、マスコミによって将来需要はさらに膨れ上がって見える。一般に、こうした政策は新たなグリーン製品の市場を育成し、中長期的に価格を大幅に引き下げて既存のブラウン製品と競争できるようにすることを目指している。しかし、実際には多くの脱炭素技術がこうした理想からは程遠く、主要国の競合企業も共通の競争条件にはないという現実には、目が伏せられている。

 

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政策介入の成功例として、FIT(再生可能エネルギー固定価格買取制度)が挙げられるかもしれない。しかし、忘れてはならないのは、FIT導入によって太陽電池モジュールの価格が下がったわけではなく、実際にはその国際価格は制度導入より数十年前から下落基調にあったことである。2は、2010年第1四半期から2020年第4四半期まで、太陽電池モジュールの輸入価格および国内生産価格の変化を示している。はじめにFIT導入前夜となる2011年には、中国メーカーよる激しい低価格競争により、年率20–40%もの価格低下が実現している。それは大規模生産の追求による過当な消耗戦であり、各メーカーは大きな余剰生産力を持っていた。皮肉にも、その苦境を救ったのは日本のFIT制度である。制度導入時の2012年第3四半期が大きな転換点となり、日本の輸入価格はむしろ「上昇」へと転じた。2013年の第1四半期から第2四半期には、円建ての輸入価格は23.3%(年率換算)もの上昇となった。それは円安を主要因とするものではない。同期間では、契約通貨建てでも年率15.8%の上昇である。

2012年の制度導入で急速に太陽光発電が促進されたが、それは国民に多大な負担を強いるものであり、学習効果や規模の経済による価格低下をもたらしたどころか、むしろ価格を上昇させてしまった。そして、遅ればせながら消費者負担を抑える制度改正の議論が進行した2016年度には、過去4年間に設定されていた非常に高い買取価格のプレミアムが削られ、価格は再び元の下落基調に戻っている(2)。産業育成にも全く貢献していない。7割あった太陽電池の国産率は制度導入時に3割程度に急落し、2010年代後半にはほぼ国産が消失するに至った。

政府は脱炭素に向けた産業政策として、関連投資を促し国内産業の競争力を強化するための「GX2040ビジョン」を年内にまとめる方針を示している。しかし、この「競争力強化」は、思考の分業による合理的な結論ではなく、ほとんど願望に過ぎない。世界的に補助金が縮小する中で、EV(電気自動車)の実質的な需要の薄さが浮き彫りになったように、脱炭素関連の現在のブームも、先進国政府が生み出した虚像に過ぎないかもしれない。そして、その需要の源泉にある政策支援は、グローバル化した経済の中でますます見えにくくなっている。

 

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